ちまたを騒がせている例の方の主張・・・
↑あおいちゃんの旦那様の記事です。
話すことがないので、メインテーマの前置きに使わせてもらいます。
気持ちは、少なからず分からないわけでもないが。
韓国に対する報道が多いという話が出たら、
今度は、自民党の国会議員が韓国に入国拒否されちゃいましたね。
この結果を受けて、あちらこちらで「韓国は日本の敵である」と過激な主張があちこちで・・・
それでは、マジな話、「敵」ってなんだろう?と考えたときに思いつく答えは、
「敵」→「殺すべき相手」
この場合は、「国」が敵であるから、殺すべき相手は「相手国の国民すべて」になります。
国を構成しているのは、国民ですからね。
強い憎しみや強烈な殺意を持って「敵」を殺害する。
それならば、まだ人間らしさも残っているけれども、
この場合は「殺すべき相手」なので、
西尾維新氏の小説、『戯言シリーズ』に登場する「零崎一賊」のように、
「息をするように殺す」
「そうであるように殺す」
つまり、殺すことが当たり前。水を飲んだりトレイにいったりするのと同じレベルで。
極論になるけれども、おそらくは終着点はこのあたりだと思います。
相手を「敵」と認識する。そうすると終着点は間違いなくここ。
この場合は、「相手国民すべて」を敵と認識するため、殺すべき対象は
「生まれたばかりの赤ん坊」や「公園で無邪気に遊び回る子供たち」にまで
その対象は及びます。
さらに、関係する人間や、協力する人間がいれば、そういう人たちもすべて「敵」であると、
認識し始めるでしょう。
「殺す」という行為。「殺されること」は受ける側だが、
殺すということは「能動的」であるので、すさまじい覚悟を要求されるでしょう。
戦争で殺した兵士がどうなったか・・・よく言われる話です。
有名な時代劇、必殺仕事人で東山紀之氏の台詞の中に
「人を1人でも殺したら、そいつは間違いなく地獄行きだ!」というものがあります。
さらに、仏教では
「思うことと行動することは、同義」という言葉もあります。
心で思った時点で、行動してしまったことと、本人の中では同じ、ということですね。
本気で「人を殺したい」と願った時点で、心がどういう変化を起こすか・・・
さらに、殺すことが当たり前になった心境。
それは、自分は専門家でないために分かりません。
相手を「敵」と認識すること。また「敵」と言ってしまうこと。
これがどれほど危険な行為であるか、おわかりいただけたでしょうか?
軽く発した言葉でも、言葉である以上、「言霊」つまり意志を持ちます。
言葉自身が意志を持つのではなく、発した人間の心に意志を宿らせるんですね。
日本は震災で多数の死者を出し、にも関わらず毎年3万人以上の自殺者を出しています。
なかなか、命に優しくできないものだな・・・って思います。
じゃあ、どうするか?どうしたらよいか?
それは、また別の機会にでも。
んじゃ、そういうことで・・・
バイバイ~♪
って、本題に入るの忘れてた。
↑図書館で、こういう本を借りてきました。
ちょっと読んで勉強してみようっと♪
本題も話し終えたし、んじゃ、今度こそバイバイ~♪
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